生い立ちの背景
 私に物心が付いたのはランプ生活で、徳川夢声の『鞍馬天狗』を鉱石ラジオで聞くのが楽しみの時代だった。
 そんな草深い田舎村にもにもようやく電燈が灯り、ラジオも家族皆んなで聞け、増して子供の日課だったランプの掃除をしなくて済むのが嬉しかった。通学路と云いば、車と人馬跡の三本が何処迄も続いた畦道、夏は雑草が生茂り朝晩歩くとその露でずぶ濡れに、冬は霜解けで泥んこ道、村に只一本の県道も雨でも降れば水たまりができる凸凹の砂利道、ときたま自動車が来ると珍しくて『排気ガスが好い香りだ』と跡を追っかけたこと、正月に新しい下駄を買って貰い汚したくなくて下駄を懐に素足で歩るいた事、今想いば懐かしく愉快な気分になれるから不思議なものである。
現在は自然博物館に こちらから
 そんな或る晩、お嫁入り前の伯母さんから威らい人のラジオ放送があると聞き、子供の私には話しの内容は解らなかったが、それは大日本婦人連合会長の訓話で、『剃刀の東條』と云われた後の内閣総理大臣”東條英機”その人である事を知る。

大二次世界大戦
 隣のお兄ちゃんも弟さんも大好きだった嵩ちゃんまでが、三寸花火を打ち上げて部落の神社で式を催げ大勢の見送りで出征して行った。家を出る時、小母さんが人目を憚るようにそ−っと、握り飯の包みを渡しているのを覚えている。
村では千人針を縫っている婦人を彼方此方で見かけるように成った。学校では毎週のように出征兵士の留守宅に勤労奉仕に行った。行った先の小母さんがお米のご飯を炊いて賄って貰った事を覚えている。この勤労奉仕も部落中の畑の麦踏みとか、部落中の松の木に傷を付けて松根油を空き缶に採るとか、樫の実を拾い集めるとか、盾草を採って乾燥するとかの仕事に変わった。午後の課業始めは”少年団分列行進”で始り、校庭や利根川の河川敷き開墾が続く毎日だった。校庭には家々から出された鉄屑が山と積まれ、私の家でも防犯用の窓鉄格子が外され供出した。学校帰りに鉄屑山で二人の兄弟が遊び小さい方の子が鉄屑を持って私に向かって来た、気が付くとその子の頭に怪我を負わした自分が在った。近くのお店の小母さんがあなたは帰りなさいと言って呉れたのであとは忘れて終ったが、この人が妹の旦那さんで今も傷跡が残っているのだからこの世の縁は不思議なものである。

 戦死者を月に何回か迎えに行った。そのうちには毎週のように頻繁になり村では合同葬が行われるようになった。
やがて、父が庭先に防空壕を掘り最初はローソクとか毛布にキャンプに行ったようで嬉しかったが、二〜三度入ったが後は覚えがない。真っ青な空には『ポン、ポン、ポン』と高射砲の煙りの上を悠々と飛ぶ米軍B29編隊が毎日見えるようになり、東京の夜空には”パッツ,パッツ,パッツ”と糸ひいた光は日本の戦闘機の機関砲で、『ダッ、ダッ、ダッ』と鈍い太い光は敵の機関砲で、撃ち合いでスーと光りを引いて墜ちてくるのは大体日本の戦闘機だった。大スペクタル映画を観ているようで大人達への手前、口には出せなかったが『ワクワク』し乍ら観て居たことを覚えている。

 翌朝には彼方此方に焼け焦げた紙屑に混じり燃え焦げた百円紙幣が落ちているのを毎朝、見るようになった。そんな或る晩、東京の上空で光りを引きながら近づき東の夜空に消えたB29が、大きな光りで戻って来たかと思う間もなく、機体からスーと丸い物が二つ墜ちてくるのが見た瞬間、パーッ閃光が走りドッドッとした鈍い音と共に地響きがした。

 大人達は一斉に駆け出して行ったが、私はお祖母さんに引き止められ何時とは無しに寝かされ、B29が隣の村に墜ちたこと、二つ丸い物は飛行士が脱出した落下傘だったことを知ったのは翌朝だった。居ても立っても得られず近所の人と、煙りの上がっている北の方に急いだことを覚えている。やがて約1H四方に股がって機体の残骸が散乱し、もうもうと煙りが揚がっている現場についた。残骸の間をよく視ると、女性の裸写真と真新しい高下駄が見えた。『戦いをしているのにアメリカ人は何んと云う人達だろう』と思った。帰りに米兵を埋めた処を通りながら草影に小さな花と幾つもの線香の煙りを見た。
 この頃になると学校では疎開の児童が毎日のように増え、我々6年生から男女各1名と先生1名が就き、部落のお寺とか神社で1〜2年生の分担教育が始まった。或日、突然雷かと思えるような”ガアーッ”とした音と共に『ドスン、ドスン』と地響きがあり利根川堤防際の松林に無数の爆弾が落され、その一つがお爺さんと母親と子供の家が直撃され犠牲になった。
 此の頃には我が物顔のロキードとかグラマン、P51の戦闘機が、毎日のように頻繁にやって来るようになり飛行機の窓から手を振るのを視られるようになった。学校の近辺の林には打殻薬莢が彼方此方で拾いるようになった。東の方では艦砲射撃の音が『ドスン、ドスン』と朝晩となく聞こえるようになった。

闘った先輩のお孫さん加藤康人氏のホームページ

敗戦と私
 陛下の御音は家中の人が集まって聞いた。祖父がポツンと言った『日本は負けたのだ』と、翌朝学校で校長先生の言葉に緊張して耳を傾けたが『日本は無条件降伏した、これからは指示を良く聞くように』との短いお話で終わり拍子抜けした事を記憶している。
 それからの学校では、教科書の墨塗りと民主主義の仕組みの話しに、何んとはなしに気なった事は、以前のような意気込みとか覇気とかを感じられない先生に変わって仕舞ったように思いた事である。  今思いば、当時は戦争には負けた精神的ショックと、食べ物も無く只、今日を生きる事だけに必死だった大人の大変さは、痛い程理解できるのだが、子供の私にはあれほど恐かった先生、しかし心の何処かで頼りにしていた先生は、何処に行って失ったのかと言う素朴な疑問だけが私の身体の何処かに遺ったように思う。
 我々農村にも復員軍人が続々と帰って来た。都会からのリっクサックを背負った食料買出しの人の行列が、利根川の渡船場から毎日のように続いた。家畜の飼料にさつま芋の皮を干していたものを喜んで買って行った時代である。