入隊の動機
私の村でも占領政策で財閥解体、特に農地解放は小作の方には好かったが次男坊の我々には、分家するか、婿入りするか、勤め出るか、身の振り方を迫る時代で在った。就職とて縁故の口利きがなければ働き口とてなく、そんな時に朝鮮動乱が起きて、米軍の落し子のと言われた警察予備隊の募集が在った。大勢志願が殺到したのは時代の趨勢だった。私はと言うと尊敬してた従兄と近所の先輩が色盲で入隊出来なかった事を聞き、良し俺が位で切実な気持ちはなかったが入隊して驚いた事に意外に長男と少年航空兵(予科連)の人々が多く生活難の時代を物語っていた。2年勤めて”退職金6萬円”の条件に殺到したのだ。この方々に何にも解らない若者を引っ張り育てられたのが私達であり、先輩との出合いがなかったらと思うとゾッとする有り難さを噛み締める昨今である。
入隊しての仕事は兵器の補給で米軍機材の受け入れが主な仕事だった。当時米軍顧問団、特にアメリカ少年兵との出会いで私の人生に大きな影響が在ったような気がする。切っ掛けは近くに米軍のヘリコプター墜ちた時だった。皆んなは『アッチだアッチだ』と駆け出して行ってしまいその跡には私と少年の二人きりで、何が起きたのか解らず『何、何』と聞き乍らくっ付いて来た。『アメリカ、ヘリコブター、ダウン、デット』と片言の英語が口から出たのには我乍ら驚いた。それからは顔見知りなり姿を見ると飛んで来て暇さい在れば当時のアメリカの生活とか食べ物とか話題は尽きなかった。後に幾人もの顧問団の人を紹介して貰いそれからの仕事の基礎、特に徹底した合理主義には驚かされた。
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そんな日も過ぎ朝鮮動乱も納まり日本は岩戸景気から神武景気へと沸き、戦後経済は驚異的復興して行った。集団就職に就職列車、特に中学生は金の卵などと云われ続々と都会に集まって来た時代である。それに反して世情は反戦と自衛隊反対運動の嵐、なかでも隊幹部の長男が淺沼委員長の刺殺事件、労働組合、学生の安保闘争、安田講堂抗争、醍菩薩峠軍事訓練の一斉検挙、浅間山荘事件、ベトナム反戦運動、特に十條病院反対運動は夕方終業近くになると足留めされ警備が終わって帰宅は夜中が毎日続いた。そして、よど号ハイジャック、テルアビ空港乱射事件、成田空港反対闘争へ際限なく続く。
我々隊員はと言うと2年目には半数近くの先輩と同輩が金を貰って止めたが、やがて三期目となれば職業として勤める人が多くなり年輩者は結婚、そして子供も生まれ、これからどうにか家庭を築こうと思う矢先に隊の若返りの策で半数以上の人が継続出来ずやむなく退職して行った。彼等は年令的にも家庭もちが多かった。今で言うリストラだ。私は若い方だから難は逃れたが同じ生活を送った同輩に気の毒で切なく非情さに感じた。私の多くの同輩は幸い富士銀行の守衛さんとして再出発して行った。それでなくとも若い集団生活は様々なトラブルを起き、気の弱い私に精神的な支えになって呉れたのは長崎出身の『キー』さんだった。退職するまで何くれとお世話になりその想い出も数知れないものがある。
朝鮮動乱も終わりアメリカの軍事援助物資(動乱の残り物)受領も一段落して扱う機材も国産化が進み私の仕事も修理用備品の調達だった。担当の備品類はほとんど過去に実績はなく仕様書を見よう見まねで作りは大変だったが楽しくも在った。日本工業規格だの特許だの綿布産業保護法だの知らない事ばかりで当時の先輩には一から教わった。特に兄貴と慕っていた木村先輩には迷惑の賭け通しだった。従ってこの時期が私にとって一番充実して以後の人生に影響が大きかった時代でもあった。
大大の失敗
或る照準具のカバーを調達した冬だった。北海道から一通の電報が補給廠に届き大騒ぎになった。調達のカバーが凍り付いて使えものにならいと言うのだ。担当の私は顔から血の退くのが判った。当時の上司に呼ばれて『今度の事は俺が印を押したのだからお前には一切関係はない。これからは俺の言うことだけを聞いて直ちにやって呉れ』と言われ我に返りホットしたことと、その後始末には上司の見事な裁きは生涯私は忘れられない。メーカー特に工場の人、隊の整備工場等大勢の人が徹夜の協力で夕方の飛行機で必要数を現地に届けた事は組織の力を知った最初の体験であり感動であった。人は日頃の心掛けの大切さを身を以て味わいたのも私に執っては幸せだった。もうその上司は此の世にはいない。ヘリコブターの隊長で訓練中の事故に逢い明野の山中に散った。今度あの世でも良いからお礼を述べご一緒したい恩人の一人である。
補給の仕事もいろいろな方のお世話に成り乍ら1人前とは行かなくても何となく身に付いて自分の考えでやれるようになった。こんな時ある出来事が起こった。それは私が理想とも思っていたF先輩が止める事になった。原因は私が先輩を越して昇進することが判ったからである。思いもしない事で先輩まで押し退けて昇る積もりは毛頭なかったが昇任問題は『大切な友も失う』事に身をもって味わう事になった。この先輩とは今でも付合わせて頂いているが、これが縁でスー先輩ご夫婦には今はご無沙汰しっぱなしだが公私に渡りお世話頂いているのだから不思議なものである。
私のコンピュータとの出会い
東京オリンピックで沸く年に、上司から補給処にも電計を導入するので準備室の要員として行って呉れと言われた。是が私のコンピュータとの出会い最初である。西船橋官舎から土浦まで月〜土曜迄泊まり込みプログラミングの教育を3ヶ月受講したと言っても私は若い隊員のお世話係りとしての配置だったのでしょうがお世話する所かお世話に成り乍らプログラミングに夢中の自分が在った。当時は大型電計とは言い現在のパソコンには遥かに及ばない性能であり月曜は故障でやっと直ったと思いば又次の月曜は故障である。その度にメーカーの手配で今日は新宿明日は渋谷と夜昼構わず渡り歩って機械操作だった。人呼んで『夜の牡蝶』と言う時代だった。
ホワトカラー族の終焉
私達コンピュータの担当も大変な時代だったがそれにも増して実務の方は苦労が在った。時代の趨勢とは云い移行時期は倍の仕事して軌道に載れば自分の仕事がなくなると云うジレンマ。今迄一緒にに仕事をしていた先輩同僚からは『あんた達は好いよなー俺達は配置替えだものなー』と言われたときは返す言葉がなかった。今40年近くなるがメーカーも含め開発の人達とは年に一度の旅行を楽しんでいますがこの言葉だけは今も忘れられないものである。
隊では、定年の前の年から退職準備が始まり、時期が迫るのに比例して不安も増したす頃、以前お世話になったシステム班長の伊達先輩が再就職されて後久しぶりに見えて『お前には、俺が唾を付けて置くからな』と言って呉れたのは嬉しかった。私が嫌いな人事関係(人が人を評価)の仕事と言うだけで、その職場の自由な気風と云い、関係者の人柄は気に入った。その後援護の係りから人材派遣系の会社を創るので開発の要員として話が在ったが、社長さんの熱意と企画は魅力的だが通勤に遠く増して体力的に無理と判ったので積極的だった担当員に済まない気持ちで丁寧に断った。
隊員の皆様には数知れぬ想い出と多くの方へのご迷惑が去来すら昨今であり当時の感謝とお詫びとお礼とを申し上げますと共にご健康とご多幸をと心よりお祈り申し上げ懐かしんでいる私である。